うつは対症療法のツケかもしれない

対症療法というのは、単に症状に対してのその場しのぎのものである。
よく考えてみると「そのうちなんとかなる」と思って、その場をやり過ごしてきたのではないだろうか?

なんのために頑張ったのか?

なんのために勉強なり仕事なりをやってきたのか、私にはよく分からない。
ただ、「頑張れ」といわれてきたから頑張ったところはあるし、よく分からなかったので頑張りきれなくて、それを自分で「あーダメだな、私は」と思ったことは数知れない。

なんのために頑張っているのかを、先送りにしたりごまかしたりしてきたら、やはり、パーソナリティじゃなくマインドセットとして弱いと思う。
その気持ちの持ち方では、一生は、頑張れないと思う。

うつとして発症してしまうとごまかしが効かない

たとえるならばHPが1みたいな状態になっているのがうつ発症時。
肉を切らせて骨を断つみたいな特攻が一切効かなくて、肉を切らせたらゲームオーバーというか、それ以上進めない感じになってしまう。

宿題をやらなかっただけ

そこでの歯の立たなさから、「すべてのやり方が間違っていたのだ・・・」という風に解釈してしまうがそうではない。
ただ、先送りをしつづけてたら、バッファがなくなってしまっただけだ。
さながら、夏休みの宿題をためたまま8/31を迎えた小学生だ。

宿題をやらなかったからといって、学力が無いわけでも、勉強の仕方が悪かったわけでもない。
ただ、9/1に提出するべき宿題をやらなかったというだけなのだ。

じゃあどうしようか

もう9月だ。でも、宿題は出せない。
そのときにやることはなんだろうか?

お腹痛くなって学校に行かないことだろうか?
お腹痛いふりをして学校を休んで徹夜で宿題をすることだろうか?

まず、いま宿題が出せないことを認める。
そして、その決まりを守れなかったことは反省するが、別に存在を否定されたわけではないことを理解する。
また、宿題が全部正解である必要もないし、できないところは飛ばしてもいいことを理解する。
宿題を提出するということはどういうことなのかを理解して、それができるようにする方法を考える。

こんなところではないだろうか?

誰も正解はもとめていないし、努力のプロセスも求めていない。
間違ってもいいから、示した基準に対しての成果物がほしいだけなのだ。
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