肉体がかけるブレーキが病気

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先天性の場合は違うとか例外があったりするかもしれないが、今のままでは生命維持に問題が出てくるので反応が出ているのが病気だ。
病気自体が悪いわけではない。病気は現状を教えてくれているだけだ。

病気も自分の一部

病気は突然降って湧いたものではなく、いままでの行動の結果だ。運などもあろうが、そこをいってもはじまらない。

少なくとも原因はあり、その結果病気として見えているので、その病気は否定してはいけない。

病巣を切り取るという外科的手術のイメージが強すぎて、「病気は自分にくっついた異物で悪いもの」という間違った認識を持ってしまっているのではないだろうか。

病気は警告

病気は「このままだとマズイ」という警告だ。
適当な通知だと人は無視をしがちである。もっといえば、通知を無視し続けた結果、状況がマズイことになって「ヤバイと思えるレベルの通知(=警告)」を発しているのだ。

火災報知機が鳴っているときに、火災報知機を止めることに全力を出している場合ではない
まず、どうして鳴っているのかを知って、その原因を解決しなくてはならない。

原因を解決するときに警報が邪魔な場合は、警報をなんとかしても構わない。
ただ、肉体の警報は解決すれば止まるものなので、勝手に止めるのはおすすめできない。
具体的にいえば、薬で症状を完全に抑えこんでしまうと、警告すら無視するようになるから、やめたほうがいいということだ。

病気に感謝するとは?

病気というのは擬人化すると「間違った方向に歩いているのを引き止め、こちらを振り向くように引っ張り、そして顔をひっぱたく鬼教官」だろう。

その鬼教官に感謝をするのが、病気に感謝するということだ。

逆境から学ぶのとは違う。

逆境はまっすぐ進めるかを試されるが、病気は行き先変更をしなくてはいけない
病気の声は肉体の声であり、従うべき声だ。ヤジとか罵詈雑言ではない。都合よく解釈してはいけないものなのだ。

つまり、病気に感謝するということには、肉体の声を聞くという態度が必ずついてまわる。

病気を卒業しよう

病気は「そっちは生きていく道ではない」ということを警告しているにすぎない。
生きかたを否定しているわけでもなければ、生きていくことを否定しているわけでもない。
例外はあれど、病気は正しい生き方をしろと注意を促しているともいえる。

「病気教官」の話をきちんと聞いて、教官に怒られないようにしていくのだ。

そうしてあるとき、教官は肩を叩き背中を押して言う「もう、私は必要ないな」と。

それが病気からの卒業ということだろう。
鬼教官との特訓の日々を思い出しつつ、また歩き始めるのだ。病気を卒業したとき、本当に病気に感謝できるのかもしれない

くれぐれも、薬という耳栓をした状態で卒業をしたと思い込まないように。

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