うつのときに費用対効果や効率は考えない

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なんでも費用対効果(コストパフォーマンス)や効率で考えていると、だんだん何のための人生なのか分からなくなってくる。うつのときは自分の価値を信じられるよう努力しよう。

生きているだけでコストがかかる

残念ながら(?)「住む」にはコストが必要で、「食べる」にもコストが必要で、「捨てる」にもコストが必要で、そればかりか「死ぬ」のにもコストがかかる。はじめからそこにあると思える水も、その場所で飲める状態にすることにはコストがかかっている。

「お金」ではなくて敢えて「コスト」というのは、無料で提供されるサービスにも労力がかかっているからだ。

生まれたときは何もない

ここで「可能性や時間がある」とか「生まれたという事実しかない」なんていう詩的なことをいうつもりはない。
なにもないというのは、自由にできるものが何もないという話だ。

自分のものではない

自由にできるものが自分のものかというとこれまた難しい問題である。
「じゃあ自分の子どもは?」とか「自分の土地といっても使用権なのでは?」とかの疑問が湧いてくる。

ただ、そういう権利の話をしたいのではなく、パラダイムシフトを起こそうと価値観を揺さぶっているのである。

「自分のもの」というのは明確な規定があるわけではなく主観的なもので、「自分が好き勝手にしても良いものだと自分で認識していればそれが自分のもの」ということなのではないかと思う。

自分の時間や価値をお金に換算するから間違える

いわゆる工数計算である。成果物の見積もりをするときに目安として使うものだが、これを日々の生活にあてはめていくと、様子がおかしくなる。

自分が働いていて収支が合っているときは、お金を稼いでいるという実感があり、この時点では問題にはならないが、自分が働いておらず、生きているだけでどんどんお金が消えていくと、自分の存在がマイナスであると勘違いをすることがある。

そもそも工数は、会社がかけているコストに対して適正な販売金額を出すために計算するものであって、給料の金額が受給者の時間単位の価値を表しているわけではない。だから、たとえば「ラーメンの行列に並ぶ時間」を自分の収入で計算してコストを云々いうのには、私は強烈な違和感を感じる。

見ているタイムスパンが短いから間違える

人生は先行逃げ切りできるほど短くはない。無理をしていればどこかで息切れをするし、ひどければ違う意味で先行してしまい、想定より短い人生を送ってしまう。

健康維持のコストを惜しんで、仕事を頑張っても、結果的に仕事ができる時間が短くなってしまうだろう。

このくらい一般的でかつ抽象的ないいかただとまったくピンとこない人もいるので、もっと具体的に極端なことをいうと、「トイレにいく時間でお金が稼げるから、大便は1日1回になるように頑張る」ようなことである。私にとってはショートスリーパーになろうと努力している人はこれに近い行動をしているように見えてしまう。

生産性が高いということが良い人生というわけでもない

価値が変わらないと思うから間違える

「成長する」とか「相対的に劣ってきた」という経年変化だけではなく、タイミングや環境で変わっていくものだ。お金の価値でさえ普遍ではないのだから、いまこの瞬間の価値ですら測れない「人間の価値」が変わらないわけがない。

変わっていくものを変わらない基準としてしまうから現状と乖離してしまうのだ。

費用対効果を考えるのが悪いわけではない

費用対効果はテクニックである。これ自体に善悪はない。

「自由に扱ってよいものをもっと生かしていく」という考え方には「費用対効果」という考え方が含まれている。
これは豊かになるには必要な考え方だと思う。

ただ、「人には一定の決まった価値という資源があって、それを切り売りして生きていく」という前提から費用対効果を考えてはいけないのである。費用対効果が悪いわけではなく、前提を間違えていると費用対効果のせいでさらに精神状態が悪化していくので、そこに着目しているのだ。

まずは自分のルーツを確認して感謝をする。そして使わせてもらえる資源を有効に利用するということ念頭において費用対効果という考え方を使う。人や自分を裁いたりランク付けするために費用対効果を持ち出すのは、みんなを不幸にする悪い考え方である。
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