集中力がないからうつなのだ

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うつ状態のときは、集中するということすらできない。とくにプログラミングなんてしていると絶望的な生産性になる。

集中できないことを嘆くな

それがうつというものである。だから病気として療養しているのだ。
こんな簡単なことも分からないから、戦線離脱を命じられているのだ。

うつが治ってきてはじめてわかることもある。
「治った人がそれを教えてくれよ」と私は思ったので、こうして書いているのだ。

集中ができるのなら苦しまないし、仕事にも影響はでないし、そもそもうつじゃないのだ。
でも、うつだとそういうことも分からずに「なんでできないのだろう」と悩みだす。

足を骨折して、そのうち痛みが感じなくなったから、以前のように走ろうとしたら、そもそも立てなくて唖然としている状態に近い。別にもう二度と立てないわけでも、もちろん走れないわけでもない。

集中できるようになるのがリハビリ

私はうつは心の風邪とは思っていない。
これは抗鬱剤を使ってもらうための製薬会社の広報戦略であって、功罪はともかく、心の風邪というのは真実を言い表していない。

「うつは心の大腿骨骨折」ということをいっていた本があったが、それに共感をおぼえる。

骨折は恐ろしいものではないけれど、リハビリを怠ると可動域が狭まったり、必要な筋肉がいつまでもつかなかったりして、以前のように生活できなくなることもある。

余談ではあるが、寝たきり老人のきっかけのほとんどは骨折だという。

負荷はやっぱりかけなくてはいけないのだ。
その負荷というのは、うつに関しては集中力をつけることだと私は思っている。

認知療法とマインドフルネスはつながっている

認知療法でも認知行動療法でもなんでも(?)いいが、とにかく、認知するということは、きがつくということである。気が付かないことには何も始まらないのだ。

そういうわけで、カウンセリングがつくというのが一般的となっている。

うつの人が自分だけでやってしまうと、気が付かないうちに負のスパイラルに入ってしまい自分では止められないという危険をはらんでいるからだ。

まずは気がつくというところが大切で、それをするにはマインドフルネスがよい。

どういうことかというと、マインドフルネスは実は余計なことを考えていたことに気がつく訓練でだからだ。マインドフルネスは無を愉しむ修行僧の世界ではないのだ。

「あ。余計なことを考えてた。」と瞑想をしていて思う回数が増えたとしたら、それは気がつく回数が増えたということであり、その気づき力というべきものは、認知療法にもいきてくる。

ある意味贅沢

うつという心の骨折は、適切に処理すれば後遺症を全く残すこと無く、むしろ力強さを手に入れることのできる、ある意味贅沢な経験なのかもしれない。

もちろん、精神的なものはかなりくるので、贅沢なんて思う暇もないとは思うが、そう思える日が来ることも可能性としては高いのである。

できないからダメという気持ちを持ってしまいがちだし、実際、結構な絶望感に襲われるが、諦めなければできるようになるものである。とにかく、自分を信じることが大切だ。それが克服の条件ともいえるし、それがなくては克服はできない。
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