自分を完璧主義者とは思っていなかった

よく「完璧主義者の人が鬱になりやすい」という話を聞く。そして、自分のことを完璧主義者であると思ったことなどなかった。

しかしながら、自分の性格を深掘りするにあたって、「もしかして自分は完璧主義者の範疇にあるのではないか」と思うようになった。

何をもって完璧主義者というのかは重要ではない(それがわかったところでなんの解決にもならない)。ここでは、どういう心の傾向性をもっていると鬱になりやすいのかという点から考えていくことにする。

自己評価に減点方式を採用してしまう

一日の予定を立てるときに、ToDoリストを用意して、それを消し込むようにしてタスクをこなしていく人は多いだろう。(これだけでは、完璧主義者とはいえない。)

一日が終わったときに、消し込めなかった項目を見て「終わらせることができなかった。ダメだな。」という評価を下すのが、すなわち減点方式である。

自分の中では「できたらいいな」ではなくて「どうしてもやっておきたいもの」のリストであったとしても、そこは関係ないのである。「できて当たり前」を前提に減点して評価するのが減点方式なのだ。

だからといって「これだけ消し込みができた。素晴らしい。」という見方を勧めているわけではない。それは自分に嘘をついていることになる。「できて当たり前」ができないのだから、素晴らしいはずがない。

どう評価すれば良いのか

ひとつ言っておくと、完璧主義が悪いわけではない。だから、そこを変えようとする必要もないと私は考えている。自分にあった納得のいくやり方をしたらいい。

ポイントとなるのは、できなかったところを「だからダメなのだ」として、問題自体に全く目を向けていないところだ。

自分がダメだからできないということにして、話が終わってしまっている。これから先も同じことを繰り返して、自分の評価だけがどんどん下がっていくことになるだろう。このままだと、遅かれ早かれ自滅していくのは目に見えている。

ここでは、ちゃんと原因を考えることが重要だ。きちんと振り返って次への手を打つべきなのだ。(「反省」というと本来の意味ではなく、単なる「自虐」や「落胆」と混同する人がいるので、ここは敢えて「振り返り」としておく。)

できなかった自分を責めるのではなく、できなかったことを受け入れて、どうしたらできるようになるのか(あるいはやること自体が適切だったのか)を考えることこそ、やるべきことなのだ。

どう考えたら良いのか

たとえば、消し込めなかった項目が「タバタプロトコル」だったとする。(タバタプロトコルは4分間程度で完了する非常にきつい高負荷の有酸素運動だ。)

そもそも、帰宅後にそんなきついトレーニングができるのかという問題がある。気力や時間ということのほかに、体力や知識の点でも準備ができていたのかということも検討に値するだろう。

しかも、この日は残業で遅くなったとあれば、その効果も怪しいと言わざるを得ない。

とりあえず運動をするということにしても、「ぶら下がり健康器に1分ぶらさがる」とか「ストレッチを兼ねてブリッジをやる」といった体操レベルのものから、自重運動の筋トレまで(それこそタバタプロトコルのメニューまで)、バリエーションを作っておくのもいいかもしれない。

そのToDoに入れた意図や狙った効果を考えて、手を変え品を変えするのが、賢いやり方ではないだろうか。

ここまでやっておくと、「できなかったこと」が「うまくやるための判断材料」に変わる。つまり、これこそが「失敗は成功のもと」というわけだ。

どうなったら成功といえるかを判定する基準を決めて、効果を測定するともっと良いだろう。

こう考えたら自分に嘘をつくことなく、気持ちを前向きにできるのではないだろうか。

やっぱり完璧主義者かも

ここまできっちり考えるのが素晴らしいと思えてしまう時点で、私は完璧主義者なのかもしれない。でも、そんなことはどうでもいいのである。

いろいろ考えるのが面倒くさいのならば、やったことが自動的に計測されるような・・・たとえばスマホのアプリを使ってそれを定期的に見直すのでも良いだろう。

自分の傾向性を無理に捻じ曲げるのではなく、無理のない感じで軽くいなして、気分良くゴールに結びつけたらいいのではないだろうか。

勝手に自分を評価して、ダメ出しして、凹んで、自滅していくのはよろしくない。そんなときでもすべてを変えないのが、うまくやるコツだと思う。

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