まずは自分がどうしたいか
環境の話やそれによって狭まる選択肢の話の前に、まずは自分がどうしたいかを認識すべきだ。
実は自分がどうしたいのかが分かっていないことも多い。「当たり障りなく、無難に・・・」と「ご迷惑をおかけしない」という心がけがそのまま生き方になっているかもしれない。
まずは、いま死ぬとして「これをやらなくてもったいなかったな」と思うことを書き出してみよう。この縛りがかかると、現実的なものしかでてこない。ちなみに私の場合は小笠原諸島に行くことだった。
日常のちょっとした欲求ではなくて、もっと原点に立ち返って欲しい。
周りのせいにしない
先ほどあげた「やりたいこと」は、恐らく死ぬ気なら可能なことを設定していることだろう。
例えば私の小笠原旅行であるならば、あとのことを考えなければ10万円程度のお金は借りてくることができるし、1週間程度の休みだって作れる。色々な問題があってもあとのことを考えなければ実現できることが多いのではないだろうか?
それができないのは、なぜだろうか?
社会のモラルに反するからだろうか?それとも自分の勝手な妄想で奥さんが反対すると思っているのだろうか?
ここで引っかかる人もいるだろう。「妻は許さないに決まっている」と。奥さんに聞いてもいないのに出てきたその答えが妄想以外のなんであるのか教えてほしい。ちょっと断られたくらいでも、自分が死ぬ前にやっておきたいものだという気持ちを理解してもらっていない可能性のほうが高い。
人や周りのせいにして、自分が自分を自由にできないことのいいわけにしてないだろうか?
決めたのは自分
周りの状況を鑑みずに、やりたいことをやって死ねといっているわけではない。
周りの状況を鑑みて、いまの行動を決めたのは、まごうことなき自分なのだ。自分で決めた行動なのになぜ人や環境のせいにするのか?いま、自分が病気だろうとなかろうと関係がない。決めたのは自分だ。
自分で決めたのだから、決めたことによる責任は自分がもつのだ。ガタガタいうのであればしっかり自分で決めるのだ。
「自分のことを自分で決めていい」というのは、権利の話に聞こえるかもしれないが、実は義務の話をしている。「自分のことは自分で決めるものだし、その責任は負わなくてはいけない」ということだ。
決めても決めなくてもいいなんていうぬるいものではない。決めなかった人は「自分で決めない」という決断をしたのだ。
決めることは変わること
決めるということは、自分に一つの軸ができるということだ。決めたことによって自分に責任が発生するから物事の見方が変わってくるし、見方が変われば環境も変わる。
ただ、変わるというのは劇的に変わるわけではない。劇的に変わる部分もあるかもしれないが、それはそれである。磨くことを怠ってきておきながら、日々磨いてきた人たちを一発逆転で出し抜こうというその心意気は、褒められたものではない。
すぐには変わらない
変わるには地道な積み重ねが必要になる。ちょっと効率的なお掃除の仕方を教わったからといって、全てが一新したと思わないほうがいい。
それはまるで、重曹の水垢落とし効果を知って大はしゃぎするものの、3日で飽きてしまって一ヶ月後には汚い部屋に逆戻りしてしまった人みたいだ。
一発逆転は宝クジを狙うようであり、周りの賛同も得られにくい。うまく当たりクジをひいたとしても羨望はあれど、賛同も尊敬もされないだろう。恥ずかしいと思える過去も今の自分を作っている大きな要素なのだから、そこはまるごと抱えていかなくては、バランスがとれない。
新しい私
別に「なにこれすごい!新しい私!」みたいな感覚を否定するわけではない。でもそれは狙って実現するものではない。いや、正確にいえば、それも狙ってやるのだけど、たまたまではない。本人は綿密な計画のもとにやるので、周りからは「新生」くらいの変わりようかも知れない。実は、当の本人はアタリマエのこと・・・だが、まわりからの賞賛が想像以上にすごくて「なにこれすごい!新しい私!」になるだけのことなのだ。
それでもわからない人にいう。「日本新記録がたまたまでるわけないだろ?」
もう一つ、「新しい私」を感じるケースがある。周りの過剰な高評価だ。自分は何も変わっていないのに周りが騒ぐのでなにか変わったように感じるだけだ。簡単にいうと褒め殺しにあったようなものである。つまりは騙されているのかもしれない。