ジョギングは人生に大切なことを教えてくれた

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走るのが嫌いだった

マスターズスイミングをやっていたが、ジョギングは嫌いだった。

「3キロ走るくらいなら3キロ泳ぐほうがいい」と思っていた。ハアハアと気管はツライし、脇腹は痛いし、30分も走っていると足が痛くなる。

構わず7キロくらい走っていたら、膝を痛めてしまい足を引きずって帰ってきたこともある。

それでも走ることにしたのは、プールに通うお金が無くなってしまったことと、うつを完治(本来は完治とは言わず寛解と言うらしい)させるには運動が良いと聞いたからだ。

最初は、とにかく処方箋だと思って、2キロ程度をゆっくり走ることにした。いわゆるスロージョギングでいわゆるフォアフット着地というやつだ。心拍数はよくわからないが、とにかくつらくない程度ということで日をあけないようにして走った

目的地は手段

だんだん走れるようになってきたので、それはそれで気分がよかった。ただ、走ったあとのお風呂は気分が良かったが、走っていること自体は相変わらず好きではなかった。走った結果気分が良くなるからといって、走ること自体が好きになるわけではないのだ。

そのころ、仕事が立て込んできて、少し遅く帰るようになっていた。

「ウツではないけれどまだ普通では無いから粘り強く経過観察」というような状態から「普通の人並みの負荷をかけていこう」という時期を経て「ご指名で仕事が入ってくる」という状態になっていたのである。

そこで知ったのは帰宅ランである。電車にのっている時間の一部を使うことで、結果として運動に時間をさけるようになるし、帰巣本能を利用して一日の終わりに高い満足感を得ることもできる。

これはこれでなかなかの成果を上げたが、道を知ってくると目新しさもなくなってきて、段々と苦痛となってくるものである。

ただただ走ることにも飽きてきたところで、マラニックというものを知った。なんでも「ペースや走ること自体にとらわれず、公園などの目的地を足を使って回っていくもの」だという。

「これは走ること自体を楽しくしてくれるものだ」と思って早速休日に取り入れてみた。回を重ねると知った道が増えてくるようになる。そうすると知らない道に出るまでが、苦痛とは言わないまでもつまらないもののように感じるようになった。

とはいえ、この頃の月間走行距離は150kmを超えている状態で、走るのが嫌いという状態ではなくなっていた。

いつの間にか私は「走ることで目的地につく」のではなく、「走るために目的地を設定する」ようにするにはどうしたらいいのかを考えるようになっていた。

「今は苦しくても」だとずっと苦しい

走っているときに目的地につくことが一大関心事になってしまうと走っていることに集中ができない。思考が「はやくつかないかなー」になってしまう。走ることを楽しむということからは程遠い状態だ。

そこでまず、走っている状態が苦しいというのはいけないと考えた。実はスロージョギングははじめからそう言っている。乳酸がたまらない程度の運動強度を勧めているのだ。

私はスロージョギングといいつつその強度をあまり気にせずに、ただゆっくり走っていたに過ぎなかった。心拍数が目安になるといってもいつも測れるわけではないし、体で覚えるのも億劫だったのだ。

実は分かりやすい目安がある。鼻呼吸だけでできる運動強度なのだ。これならば肌にあたる空気の感じやまわりの音を楽しむ余裕も出てくる。

こうして・・・いままでのペースが少し速すぎたことに気がついたのだった。

鼻呼吸を目安とした運動強度のほかに、取り入れたものがある。ベアフットシューズだ。

要は裸足の感覚を大切にした靴で、ミニマリストシューズといったりもするようだ。裸足のように・・・とはいかないまでも、路面の状態が足の裏で感じ取れるようになるし、クッションはない。

製品の特性や各人の体の状態にもよるが、これで走ると、ちょっと工事をしたあとの小石が立ったような道路が足つぼマッサージとなり、始めの頃は悶絶するほどである。

路面からの情報量が跳ね上がり、足裏に痛みとして情報が来るために、体全体で衝撃を吸収するような動作をとるようになり、体に無理をさせることがなくなる。結果的に、適正なペースに保たれ、楽しんで走っている分には長引く故障をすることはない。せいぜい豆ができる程度である。

これは画期的で、走ること自体が楽しくなってきたのである。自然からのインプットを受け入れることで、こんなにも生きている実感がするものなのかと感じた次第である。

持続可能であること

「あの坂を越えれば海が見える」だけではダメなのである。始める切っ掛けはそれでよいし、やり始めは目新しいことばかりなので良い刺激になる。しかしながら、慣れて、その目新しさが無くなってくると途端に続けることが難しくなる。

やはりその行為自体が好きにならないと続けられない。これはダイエットのリバウンドにも通じるところがあるだろう。

ウツ状態の改善も同じことが言えるのではないだろうか?

いわゆる「普通の生活」を夢見て、今は苦しくても頑張るようでは、また心が折れてしまう。無理なく一つ一つ成果を確かめながら自分が良くなっている状態を噛みしめていくアプローチが王道なのではないだろうか?

画期的な手法や劇的な回復を望むのは人のさがではあるけれども、本質は「治すことではなく向き合うこと」ではないだろうか?

みんなできていないので焦らなくて大丈夫

「普通になりたい」といっても、誰でもどこかしら欠けていたりするものだ。すべてにおいて普通にそつなくこなせる人のことを世の中の人は完璧超人という。普通ではない。

自分の足りていないところを一つ一つ満足できるレベルに押し上げるというのは、普通に考えれば生涯続くことであって、「できるようになるまでは苦しくても頑張ろう」なんてことをしたら人生終わってしまう。

まずは始めること。そして続けること。さらに好きになること。

好きにならなければ続けられないとはいうものの、ある程度続けなければ好きになりようがないし、そもそも始めなければ「続ける」という状況にはならない。

そういうことをジョギングが教えてくれた。12/10に大島で初フルマラソン。完走できればよく、記録は気にしていない。

ふと思ったのだが、ベアフットとはまるでマインドフルネスのようだ。経過を味わうための手法だからそう思ったのかもしれない。人生においても「鼻呼吸」のような目安が欲しいものである。

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