「スタンフォードの自分を変える教室」(文庫版も出ていて廉価でおすすめ)で日本でも有名になった健康心理学者のケリー・マクゴニガルも、「ストレスが健康に害があると思っている」こと自体が問題であり、ストレス自体には害はないとしている。
詳しくは書籍や「ストレス無害説」などで検索してもらうとして、要は「刺激」は問題ではなく、受け止め方の問題であるというわけだ。なんと身につまされる話だろうか。
受け止め方は変えられる
このあたりはマインドフルネスとも通じるところがある。
マインドフルネスは大雑把にいえば、今起きている事象を観察することであり、条件反射と感情のあいだに「スペース」を設けるテクニック(といってしまうと語弊があるかもしれないが)である。
この「スペース」をもっと具体的に説明しよう。
「痛い」と感じたが、そこからかならず「怒り」を感じるわけではない。「悲しい」「心地よい」と思うこともできるわけで、「痛い→怒り」のあいだに「痛い→(観察)」という具合に、自分を客観的に見つめるフェーズのことをスペースといっているわけだ。
「ストレス」というと悪いイメージしかないので、「刺激」と言い換えても良い。「刺激が全くない生活」といえば、確かに良くないように思うだろう。心身ともに「刺激」を受けない部分はどんどん退化していくことは想像に難くない。心も体もぶよぶよになってしまうのだ。
ストレスの強さは絶対値ではない
「ストレス」を「砥石」に置き換えるとまた違った面が見えてくる。
状態にあった「砥石」を選ばないと、削れ過ぎたり傷がついたりする。こちらのほうが従来考えられていたストレスに近い印象だろう。
確かに強すぎる「刺激」は心が「削れたり傷ついたり」するかもしれない。しかしながら、心が「削れたり傷ついたり」しないのであれば、同じ「刺激」であっても健康に対する悪影響はなくなってしまう。もし「削れたり傷ついたり」したとしても、意識が違えば治りも早いのだ。
「同じ砥石でも影響が変わる」部分は、ストレスを砥石に例えてしまったがゆえの見落としポイントであるかもしれない。
最後に
「自分には一定のMP(マジックポイント)があって、日々のストレスでこれを消費している。だから、大きなストレスを受けるとこのMPが枯渇してしまうのだ。」と思うこと自体が、そのMPが枯渇する要因なのだ。
ストレスマネジメントはストレスを受ける強さを管理するのではなく、受けたストレスの感じ方を管理するほうが理にかなっている。
そうはいっても、「受けたストレスの感じ方を管理する」とはどういうことなのか、ピンとこないかもしれない。乱暴にいえば、「マインドフルネスをやりましょう」ということだ。
少なくとも、受けたストレスの大きさに絶望するのではなく、ストレスと向き合って「いやぁ、これはなかなかつらいよなぁ」と味わうことはプラスに働くということが分かっていれば、いままでよりもうまく立ち回れるのではないだろうか。
起きてしまったことは変えられないし、閻魔帳に正の字を書いていても幸せにはなれないのである。